【葵(あおい)紋】
葵紋は葵の葉、または葉と花とを象った紋である。葵は馬兜鈴科に属する植物で、フタバアオイかまたはカモアオイといい、学名を双葉細辛という。古来、葵の字を用いてはいるが、この文字は錦葵科に属する錦葵および?牛児科に属するテンジクアオイなどに用いられたものであり、藤原時代、衣服の文様として用いられた小葵などは、この種の植物を象ったものである。早くからこの文字を用いたために、先入観となってフタバアオイにもこの字を代用するようになり、ついにはこれを混同してしまった。(沼田頼輔著「日本紋章学」)

葵が家紋として初めて見えたのは『見聞諸家紋』である。同書は葵をとり上げ、丹波之西田と題している。すなわち西田氏の家紋としてこれを用いたことが知られる。
戦国時代になって、三河の松平・本多・伊奈・島田の諸氏がこれを用いた。徳川氏は三河にはいり、松平氏を継ぎ、またこの紋章を用いた。のち、将軍職になるにおよんで、この紋章は権威を得て、ほとんど菊桐の紋章を凌ぐほどになった。
丹波の西田氏をはじめ、三河の松平・本多二氏がどうしてこの紋章を用いたかというと、いずれも加茂神社の信仰に基づいたものである。(沼田頼輔著「日本紋章学」)

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沼田頼輔著「日本紋章学」に、徳川家歴代の葵紋の図案が掲載されており、そこには『御服所後藤縫殿助書上御紋控書』所載とある。以下の図案は、これを参考に作図したものである。(2013/3作図)

徳川宗家においても、葵紋の蕊は初めはほとんど一定していなかった。文政年間(1818~30)御服所後藤縫殿助から幕府に書き上げた『御紋控書』によってこれを見ると、家康・秀忠・家光の三代は三十三蕊、家綱は十九蕊と二十三蕊、綱吉は二十三蕊と二十七蕊、家宣は三十一蕊と三十五蕊、(原本は家継を欠いている)吉宗は二十三蕊、家重・家治はともに十三蕊を用いた。このころから将軍家の紋章もまた十三蕊に定められたのか、その後はいずれも十三蕊を用いた。(沼田頼輔著「日本紋章学」)

会津葵
19蕊
徳川葵
13蕊(2)

初代家康
二代秀忠
三代家光
33蕊(1)

紀伊六つ葵


<<衣服:上下(かみしも)と小袖に付けられた紋の大きさ>>
「歴代将軍家紋章の留書」によると
家康・秀忠・家光 → 一寸四分五厘と一寸七分
綱吉 → 一寸五分と二寸
家宣 → 一寸六分と一寸七分五厘
吉宗・家重 → 一寸四分五厘と?

<<将軍の世子は、その年齢にしたがって、家紋の大きさを増す>>
十代将軍家治(1737-1786)
1737-1742 直径一寸一分
1742-1748 直径一寸二分五厘
1748-1751 直径一寸三分五厘
1751-1752 直径一寸四分二厘
1752ー     直径一寸五分(初めて将軍と同じ寸法になる)

家治の世子である家基の家紋を見ても、家治の場合とまったく同じである。ここから、将軍家の世子は、その誕生の年から年齢がふえるにつれて、家紋の大きさを増すということになる。

諸大名の家紋も、将軍家と大差ない。即ち、大きいものは直径二寸、小さいもので一寸二分どまりである。天保四年(1833)の『御召御紋帳』によると、伊達家の家紋竹に雀は、横二寸縦一寸、三引両は直径一寸八分である。一般的には、諸大名の家紋の大きさは一寸五分を標準としている。
以上、沼田頼輔著「日本紋章学」、Wikipedia(徳川家治)参考


将軍家・諸大名の間では、定紋はその家の正嫡が継承するのが原則であり、二男や腹ちがいの者の家紋は、定紋と多少構造の違った紋章を用いるのが普通である。
例えば、徳川氏は葵紋を表裏によって区別した。
尾張家は表葉二つ裏葉一つ
紀伊家は表葉一つ裏葉二つ
水戸家は三葉とも裏葉
を用いた。(沼田頼輔著「日本紋章学」)
と書かれているが、それらの図案は掲載されていない。そこで、紋帳等で御三家の図案を調べてみたが、それらを見る限りにおいては、表葉と裏葉の区別は困難である。

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