木谷吉次郎翁は、昭和二十四年一月亡くなったが、翁の九十二年にわたる長い生涯を通して私の教えられるところは、『人間の一生こそかくありたきもの』ということである。
翁は周知の如く粟崎の豪商木谷一門の男子として出生した。しかし、豪商一門といってもその末裔である。翁は志を立てて神戸へ出た。それからの数十年、激動の明治期から大正・昭和と、翁一流の鋭い経済感覚に立つ刻苦勉励によって巨億の富を築き上げた。しかも翁の非凡は、功なるや営々として積み上げたこの巨富を惜し気もなく社会公共と育英のために注ぎ、遂にはその家屋敷までも社会に解放して、全く生まれたままの裸の姿で大往生をとげられたことである。(下略)清水隆久著「木谷吉次郎翁」の「序」より/昭和45年1月16日発行)
木谷家一門の家紋 清水隆久著
「木谷吉次郎」
掲載写真より
紋名不明。パーツに分けて紋名を付けようと試みたが外枠名が不明、中は”変わり四方木瓜”とでも付けようか?

木谷(きだに)吉次郎(きちじろう)翁の本家である加賀石川郡粟崎村の豪商木谷藤右衛門家は、初代以来屋号を「木屋(きや)」と称え、代々「藤右衛門」を襲名する北国の豪商として全国的に知られた家柄であった。
一般に、加賀藩時代の豪商といえば、すぐ石川郡宮腰(今の金沢市金石町)の銭屋(ぜにや)が云々され、木屋(谷)家については殆ど知られていないようである。しかし、木屋(谷)は藤右衛門は、その起源ならびに繁栄の持続(銭屋は、五兵衛一代のみの繁栄をもって知られた)においても、銭屋を上廻る勢威をもっていたのである。(中略)

安永六年(1777)に五代目藤右衛門が藩に差し出した「当家由緒并代々相続人御用方相勤」の控は、(中略)
「兵乱に付商船に而北国〇罷下り、則石川郡粟崎村ニ落着仕居住候、尤紋所四目ニ古幕并古用具之物、・・・」
・・・
紋所の四目ハ子孫ニ茂為致着間敷旨、(以降略)(清水隆久著「木谷吉次郎翁」より)

これを見ると、当時の家紋は「四つ目」で、古具足・系図・書付なども代々持ち伝えているが、廻船業とともに材木商いをするようになったので、家名も木屋(谷)と改め、さらに武士を忘れて商いに徹するため、紋所の四つ目は子孫にさせないことになっていると。(2013/8/8)


パンダ紋
正面プリント大
パンダ紋
両面プリント小
パンダ紋
両面プリント大
パンダ紋もどき
正面プリント大
ぶぅたん紋
正面プリント大

節電の夏
(洒落紋)
浪に日足に
かもめ(洒落紋)
日足と富士山と
霞(洒落紋)
鯉水 鯉に波

手桶
槍の半蔵
白鳥

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