【梅(うめ)紋】


梅(うめ)紋
丸に梅鉢 中陰梅鶴 中陰梅蝶 割り梅鉢 丸に八重梅 菅家梅鉢
棚倉梅 中陰梅の花 梅枝丸 枝梅に中陰梅蝶
【加賀藩関連】
加賀梅鉢A 丁子梅鉢A
富山梅鉢
瓜実梅鉢A
大聖寺梅鉢
七日市星梅鉢A

菅家うめばち

この呼称並びに図案は福井万次郎著「定紋の研究」によったが、同書には「菅家梅鉢は菅原姓の定紋にて・・」(上編107)とあるにもかかわらず、紋名欄には「菅原家うめばち」ではなく「菅家うめばち」となっている。単なる誤植なのか? 同書には「紋の名称 正誤表」というページがあるが、「菅家うめばち」に訂正が入っていないので誤植ではなさそうだ。

沼田頼輔著「日本紋章学」にこうある。
梅紋は、他の紋章のように従来流行した文様から移ったものであるが、これを用いたものは、菅公の子孫につながりをもつものか、もしくは天満宮を信仰したものである・・梅を家紋として用いた初めは詳らかではないが、恐らく天満宮の神紋として用いたのが、それであるように思われる。梅を天満宮の神紋として選んだのは、菅公が平素梅を観賞した事蹟にちなんだもので、これらのことはあの紅梅殿の命名、「東風(こち)吹かば」の和歌などで容易に知ることができるだろう。そしてこれを天満宮の神紋として用いはじめたことが、すでに鎌倉時代にあったということは、『北野天満宮縁起』の中で菅公の着用している衣服、および輿車など、とくにこの文様を描いてあることからでも知れよう。その後、公家や武家において紋章が用いられるに及んで、菅家の出身と関係のあるものは、記念的意義に基づいて、これを家紋とし、また天満宮を信仰するもは信仰的意義に基づいてこれを用いたので、梅紋は比較的広く用いられるようになった。(新人物往来社版P451)

これを読むと、菅原道真(【すがわらのみちざね】845~903:平安時代前期)のことを菅公と呼んでいたことがわかる。福井万次郎氏が紋名を菅原家とせずに菅家としたのは、まあ、愛称というか尊称をもってこれを紋名に用いたのだろう。
ただ同書には菅家の梅の図案が掲載されていないことが残念である。

(2017.4.9追記)
/神紋としては太宰府天満宮が梅花紋、北野天満宮の星梅鉢など・・菅原氏の子孫と称する氏族も多く梅紋を用い、
公家では高辻氏・唐橋氏・清岡氏・桑原氏が梅鉢、東坊城氏が星梅、花山院源氏の白川氏は向こう梅
武家では加賀百万石の前田氏、相良氏、久松松平氏、美作菅家党(かんけとう)・・・/

ちなみに、「平安紋鑑」の巻末には神社紋がいくつか掲載されている。これを見ると、
京都北野神社は星梅鉢、筑前太宰府神社は梅の花

平安紋鑑
京都北野神社
星梅鉢
筑前太宰府神社
梅の花

となっている。(2016.2.5)

2016.2.11:菅家の読みを「すがけ」→「かんけ」に、その他一部を訂正した

先日テレビを見ていたら太宰府天満宮からの生中継であった。その放送の中で改めて紹介されたわけではないが、チラリと神紋が映ったのを見たが、その形状は梅鉢ではなく「梅の花」であった。(2016.2.17)


【紋の割り出し方】

梅花の作図例
梅花の作図例

十割りで描く場合
この五角形が基本となる。これが逆さになることは絶対にない。
泡坂妻夫著「卍の魔力、巴の呪力」P161参考

剣先部の形状
丁字梅鉢 丁子型 瓜実梅鉢 瓜実型

梅鉢の作図例

割り梅鉢の作図例

森本景一著「家紋を探る」(P63~68)に"天地逆さまの家紋"の項があって、私は初めて紋帖にも間違いがあることを知った。手許の紋帖・書籍を調べてみると、吉沢恒敏編「紋章大集成」、吉野竹次郎著「図解いろは引標準紋帖」、京都染織問屋聯盟協會編「標準紋章の志をり全」、青幼舎「日本の家紋」は天地が逆さまで掲載されていた。

中陰梅鶴(見立て紋・擬態紋)も実は正円にピタリと収まっている、というかそうなるように作図(2013/7/3)した。
家紋は全部ではないが、多くの場合、正円にピタリと収まるように描かれている。


藩祖利家の家紋は星梅鉢

・前田利家時代の旗紋・家紋は「素梅鉢」(我里注:星梅鉢のこと)に終始しているようである。(高橋賢一著「大名家の家紋」P227 昭和49(1974)年6月15日初版)

・藩祖利家の時、すでに梅鉢を家紋にしていたが、・・・その梅鉢は梅の花をデフォルメして、五輪の花びらを大きな丸で表現し、真ん中に小さな丸を置くデザインで、星梅鉢と呼ばれるものであった。この利家の星梅鉢は前田家の発展に伴い変化する。(楠戸義昭著「日本人の心がみえる家紋」P147 2002年12月15日初版)(2013/8/30)

<< 加賀前田家系図 Ver. 1.3 (2013/7/4) >>

・加賀藩第二代藩主・利長の家紋を除いて(利長の家紋は今のところ楠戸義昭氏の先述の書籍でしか確認できない為)、全て家紋を差し替えた。この時、沼田頼輔著「日本紋章学」の図案を参考に、かつ、泡坂妻夫著「卍の魔力、巴の呪力」の梅鉢の作図法に則り(紋の割り出し法に従って円を十割りにするところから始める)、さらに加賀前田家一門の梅鉢シリーズの一環としての統一性を意識して新たに作図したものである。

追記(2013/8/30)
・Wikipedia の「前田利家」の項によれば、七日市藩初代藩主利孝を四男でなく五男としている。→ こちら
四男 利常(1594.1.16 - 1658.11.7)加賀前田家三代
五男 利孝(1594.?. ? -1637.7.25)七日市藩初代藩主

・光高が急死した正保二年(1645)の六月十三日、綱紀は将軍家光の命によって父の遺領をついだ。時に年わずかに三歳であったから、小松(石川県)に隠居していた祖父利常が政務をみるように命ぜられたのである。このときの領地は80万石であった。
加賀藩領は、俗に100万石といわれるが、寛永十一年(1634)の利常にあてた家光の領知状では、加越能三カ国で119万2760石となっている。しかるに、同十六年に利常は80石を長子光高に譲り、自分は小松に退老して新川郡(富山県)及び能美郡(石川県)の一部で22万2760石をもって養老領とした。
同時に、次子利次に10万石、三子利治に7万石を与えて富山・大聖寺(石川県)両藩をつくらせ、東西の支藩とした。
綱紀は、この光高の遺領をついだわけであるが、万治元年(1658)に利常が死んだとき、その療養領は、後述する近江国(滋賀県)の今津・弘川両村とともに綱紀の有に帰し、合計102万5000石余となったのである。
(若林喜三郎著「前田綱紀」より)(2014/9/16 原文は石高が漢数字表記であるが、読みやすいように、これを数字に書き直した)

加賀百万石
寛永十一年(1634)八月四日、第三代将軍徳川家光が加賀藩第三代藩主前田利常に与えた朱印状によれば、119万2760石であった。
次いで同一六年(1639)六月二十日、利常が致仕を機に、長子光孝に80万石を与えて本藩を継がしめ、次男利次に10万石を与えて富山藩を、また三男利治に7万石を与えて大聖寺藩を、それぞれ分封して独立させ、自らも養老封として22万石を領したことから、本藩の石高は減少することとなった。
このうち養老封は万治元年(1658)十二月二十八日、利常の死去を受け第五代綱紀が継いでいる。このあと、寛文四年(1664)四月五日、徳川第四代将軍家綱が加賀藩第五代藩主綱紀に与えた朱印状では、102万5000石となっている。約102万石で、いわゆる加賀100万石の名はこれから生じたものである。(清水隆久著「百万石と一百姓」)(2014/9/2追記)(2014/9/16 原文は石高が漢数字表記であるが、読みやすいように、これを数字に書き直した)


===>>Top page

Ads by Sitemix