【珍紋】


初見で私が珍紋だなぁと思った紋章
一筆豆造 丹羽筋交 手桶
槍の半蔵
木谷吉次郎

豆蔵紋


槍の半蔵

渡辺守綱は本名よりも「槍の半蔵」の異名で知られてた。永禄五年(1562)三河の八幡合戦で殿(しんがり)をつとめ、槍一本で数十人の味方の命を救ったという・・。つねに家康の身辺につき、半蔵の金の手桶の指物を見て、家康の岡山着陣まちがいなしと、関ヶ原の敵物見(斥候)が報じたというエピソードを残した。「手桶」は初期には家紋としても見られた(高橋賢一著「大名家の家紋」) この図案は同書を参考に作図(2015.5.10)した。家紋は他に、三つ星一文字、渡辺扇、夕顔に月。


木谷吉次郎(きだに きちじろう)(1858~1949)

この図案は清水隆久著「木谷吉次郎翁」の木谷藤右衛門家関係主要文書の項に掲載されている「木谷家一門の家紋」を参考に作図(2013/8/8)した。木谷吉次郎(安政5年[1858]12月24日~昭和24年[1949]1月16日)は加賀石川郡粟崎村に木谷作蔵の長男として生まれる。生家は加賀藩時代の豪商木谷藤右衛門家の八代目の分家である。神戸に出て事業家として財を成し、63歳で故郷に戻り隠棲。自らは質素な暮らしをし、諸学生への援助や社会事業及び教育機関等に対する巨額の寄付をしが、無条件であり何らの見返りも一切求めなかった。

家紋・・・清水隆久氏の著書「木谷吉次郎翁」並びに「加賀百万石の豪商 木谷藤右衛門」に”木谷(きだに)家一門の家紋”として掲載されている図案がこちらである。

紋名が分からない。家紋の紋名は、例えば、丸に梅鉢、五瓜に唐花の如く外のパーツから中のパーツの順に付けられる。 木谷家の家紋は、外のパーツの呼称が分からない。初めてみる図案だ。手元の紋帳や家紋事典等を調べてみても、載っていない。中のパーツは強いて言えば、”変わり四方木瓜”とでも呼ぼうか? 普通の四方木瓜を45度回転させると、この図案に似てくるが、ちょっと強引過ぎる感がある。取り敢えず、この原稿に家紋の紋割り図の知識を導入して、私なりに解釈したものを作図してみたのが次の図。どうかな?

ところで、「木谷吉次郎翁」によると、
・・木谷(きだに)吉次郎翁の本家である加賀石川郡粟崎村の豪商木谷藤右衛門家は、初代以来屋号を「木屋(きや)」と称え、代々「藤右衛門」を襲名する北国の豪商として全国的に知られた家柄であった。

一般に、加賀藩時代の豪商といえば、すぐ石川郡宮腰(今の金沢市金石町)の銭屋(ぜにや)が云々され、木屋(谷)家については殆ど知られていないようである。しかし、木屋(谷)藤右衛門は、その起源ならびに繁栄の持続(銭屋は、五兵衛一代のみの繁栄をもって知られた)においても、銭屋を上廻る勢威をもっていたのである。(中略)

安永六年(1777)に五代目藤右衛門が藩に差し出した「当家由緒并代々相続人御用方相勤」の控は、(中略) 「兵乱に付商船に而北国〇罷下り、則石川郡粟崎村ニ落着仕居住候、尤紋所四目ニ古幕并古用具之物、系図書物等茂代々持伝候」・・・「廻船売買を渡世ニ仕、材木商家ニ罷成候間、家名木屋与改」「紋所の四目ハ子孫ニ茂為致着間敷旨、(以降略)

これを見ると、当時の家紋は「四つ目」で、古具足・系図・書付なども代々持ち伝えているが、廻船業とともに材木商いをするようになったので、家名も木屋(谷)と改め、さらに武士を忘れて商いに徹するため、紋所の四つ目は子孫にさせないことになっていると。

禁酒禁煙腹八分目・・・木谷吉次郎氏は巨万の富を成しても極めて質素な生活で、諸事倹約を旨とした。育英事業に余生のほとんどを傾け、築いた富はすべて社会に還元し、家は廃家にすると(我里注:養子を迎えたが早世し、後年再び養子を迎えたがこれまた亡くなっている)遺言し亡くなった。生活の潤いとしての趣味は、謡曲、囲碁、書などを好んだが、とくに書については揮毫のひと時を楽しむことが多かった。氏が好んで書いた言葉の一つに「禁酒禁煙腹八分目」がある。(清水隆久著「木谷吉次郎氏略伝(稿)」参考)


===>>Top page

Ads by Sitemix